電子レンジがごはんを温めるように・・・念仏は私たちを生かす

(平成30年4月10日 山陰中央新報「読者ふれあいページ」記事です。)

電子レンジと念仏     仁照寺住職 江角弘道

最近は、ほとんどの家庭で電子レンジが使用されています。とても便利なもので、冷たいご飯を電子レンジに入れて「チン」すれば、2~3分で温かいご飯になります。でも、なぜご飯が温かくなるかの原理は、知らずに使っている人が多いと思います。実は、この物理的な現象と念仏の間には不思議な対応があります。

電子レンジの原理を理解するには、温度、電磁波、水の構造、そして共振現象について知っておく必要があります。

まず、温度について、例えば、36℃の体温をここに出して下さいといっても、見えないから実体として出せませんが、確かに体温はあります。物理的に温度とは「その物質を構成している分子の平均的な運動の激しさを表す指標」です。私たちの身体は、約70%が水分で構成されていることが分かっています。だから体温とは身体の中にある莫大な数の水の分子が運動していて、その運動の激しさが36℃という温度で表せるわけです。植物も動物もその主な構成要素は水です。ご飯もほとんどが水の分子です。だから冷たいご飯が温かくなるということは、ご飯の中の水の分子の運動が激しくなるということです。

また、誰もが一度は乗ったことがある ブランコについて実験してみると、ブランコは一定の間隔で力を加えると、振れる量が大きくなります。これはブランコが持つ固有の振動数で共振(共鳴)するからです。食品の中の水が持つ固有の振動数で共振すれば、水の分子が激しく動き、食品の温度が高くなります。

電子レンジという日本語の名前は、あまり正しくありません。英語で電子レンジは、マイクロウェーブオーブンといいます。マイクロウェーブ(マイクロ波)というのは振動数が0.2~100ギガヘルツ(GHz)帯の電磁波のことです。水の固有振動数は、2.45GHzなので、電子レンジは、これと同じ振動数のマイクロ波を照射して、水を激しく共振させ、食品の温度を上げる装置です。

念仏をすることは、水にマイクロ波を照射することと対応しているようです。まず、水が固有振動数を持っていることは、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、つまり私たちがすべて仏性を持っていることに相当すると考えられます。私たちは、仏性を持っていながら、煩悩の殻の中にいると考えられます。あたかも鶏の卵のごとくです。これをあたためて孵化すれば、ひよこが現れます。仏性を開発するには、卵が孵化するように、一心不乱に念仏をすると、仏性が現れ始めます。仏性があらわれるときに煩悩はその質を変じ、従来の悪き心も善質に変化します。渋柿が日光の照射によって、甘い干し柿となるような例と似ています。

マイクロ波を照射すると冷たいご飯が温かいご飯に変ずるように、不断念仏を続けるとやがて私たちの中に仏性が現れてきます。念仏三昧になると必ず仏性が開けて来て、以前の煩悩に覆われていた心が、良き心根へと変身して行きます。念仏をする前に見ていた自然は、念仏した後に見ると自然の“いのち”が輝いて見えてくるのです。つまり、私たちは念仏することによって育てられ、仏性に目覚めてくるのです。なんとも有り難いことではないでしょうか。

 

 

リンゴと明けの明星

ニュートンもお釈迦様もひとつのことを思索・追究して、ある時、あるきっかけでそれが大爆発したのでした。

物理学者のアイザック・ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、重力に関する最初の発想を得ました。そして、宇宙の大法である万有引力の法則(重力の法則)を発見したのです。しかし、考えてみると、ニュートンが生まれる前から、リンゴの木からリンゴは落ちていました。つまり、万有引力の法則は、ニュートンの出生とは、関係なく永遠の過去から未来まで、宇宙に存在するあらゆる物を貫き、働いています。ニュートンはリンゴとの縁でそのことに気づきました。通常の物体の動きや天体の動きなどはニュートン力学で説明でき、産業機械や乗り物などの基本的なところは、ニュートン力学によって作られています。

お釈迦さまは、35歳のある日ブッダガヤという町のはずれの菩提樹の下で、静かに坐禅を組み、ついに12月8日の未明、空に美しく輝く明けの明星(金星)をご覧になり、宇宙の大法である縁起の法をお悟りなったのです。この金星もお釈迦様のお生まれになる以前から輝いていました。だから、縁起の法も、お釈迦様誕生以前から宇宙に存在し、全宇宙を貫いて働き続けています。

縁起の法は、物理学の万有引力の法則と同じく、いつどこでも、だれでも認めなければならない宇宙の大法です。さらにお釈迦さまがこの偉大なる悟りをお開きになったとき、まず口をついて叫ばれたことは、「なんと不思議なことか、人は皆仏様の智慧と徳相を具有している」というお言葉であったと言います。大法が存在するという自覚にはいられたお釈迦様が、自ら反省してみられたとき、その自覚の内容である智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生れながらにして心中に内存しておるもの・霊性(仏性)であったことに気づかれて、驚喜されたのです。

理科実験から仏様の存在を知る

平成29年10月30日 山陰中央新聞読者のページの記事です。

仏様に出会う

出雲市斐川町・仁照寺住職  江角弘道

日本では、仏様になられたご先祖や故人の霊が、お盆の時期に帰って来られると考えられていて、家族や親戚がお仏壇の前に集まり、仏様をお迎えし、供養をします。通常、その仏様は、私たちの目には見えないので、本当に帰っていらっしゃるのかわかりません。しかしながら、仏様は肉眼では見えませんが、心の目を開くと、仏様に出会うことが出来るのです。そのことを分かりやすく、携帯電話を使った簡単な理科実験で説明したいと思います。

ご存知のように、携帯電話は、ここにいない人とも話すことができます。つまり、見えない人とも話すことができます。それは、目に見えない電波・正確には電磁波がこの空間に広がってあるからです。電磁波は、見えないけれどもあります。世の中には、空気など目に見えないものでもあっても、この空間に広がっています。

今、理科実験として、この私の携帯電話をアルミホイルで、包んでみます。そして、他の人から電話をしてもらいます。そうすると、私の携帯電話の受信音はしません。つまり、私の携帯電話は、受信できなくなってしまいました。これは、電磁波がアルミホイルに吸収されて、その中の携帯電話まで届かないということです。これは、車の運転中にトンネルに入ると、カーラジオが聞こえなくなるのと同じ現象なのです。

仏様は、この電磁波とよく似ています。お経には、「仏様は、この全宇宙に充満していて、広くすべての命あるものの前に現れている」(華厳経)と書いてあります。

この空間に電磁波が拡がっているように、この空間には仏様が溢れているということですが、しかし、私たちには、仏様は見えません。それは何故かというと、通常私たちは、煩悩だらけで生活しているからです。携帯電話をアルミホイルで包んだら受信できなくなったように、私たちは煩悩に包まれているから仏様が見えません。煩悩を捨てると仏様の声が聞こえ、姿が見えてきます。白隠禅師(1686~1969)が「衆生本来仏なり」と言われたように、私たちはみな仏様の心を持っています。それは煩悩の真下にあるのです。

そして、「仏様は、いつも離れずあなたの真正面にいらっしゃって、母の子をおもうごとくまします」とお経にあるように、慈悲の面を向けて、私たちを見つめていらっしゃいます。さらに、「仏様は、正法の雨(甘露の法雨)降らして、諸々の煩悩を除滅する」(華厳経)とあります。

電磁波にもその強度が強い場所と弱い場所があるように、「見えないいのち」つまり仏様にも良く見えたり聞こえたりする強度の強い場所があるようです。それは、お仏壇の前です。つまり、そこがパワースポットになっています。

だから、お仏壇の前に座って、お経を読む、あるいはお念仏をする、または坐禅をすると、あなたの心の中に、仏様の声が聞こえたり、姿が思い浮かぶのです。毎日、朝夕に続けることが大切なことです。

マッチ売りの少女の微笑み

( 平成30年2月19日 山陰中央新報 読者ふれあいページ記事です)

「マッチ売りの少女」の微笑み

仁照寺住職 江角弘道

童話は、子供のためにある話だとこれまで思っていました。しかし、その童話を今読み返してみると、大人への深いメッセージが含くまれていることがわかります。

アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」の後半の部分で、マッチを擦りながら暖をとっていた少女が、夜空に流れ星を見て、この世でたった一人、少女にやさしくしてくれたおばあちゃんを思い出す場面があります。そこで、またマッチを擦るとおばあちゃんが、夜空に現れてきました。少女は、マッチの束を一度に擦り、おばあちゃんの姿を長くひきとめようとしました。マッチは目もくらむような光を放ち、あたりを昼よりも明るくしました。そこで、少女は、おばあちゃんの腕に抱きあげられ、光と喜びに包まれて、空高く昇ってゆくのです。その翌日、少女は町の片隅で、ほほは赤く、口元には微笑みを浮かべて、死んでいました。それを見た人々は、「この子はこうして、あたたまろうとしたのだね」と言い合います。作者は、「少女がどんなに美しいものを見たか、おばあちゃんと二人、どんなにすばらしい光に包まれて、新年の喜びを迎えたのか、だれにも分かりはしなかったのです」と結んでいます。

この童話の中で、少女がロ元に「微笑みを浮かべて」死んでいる様子が描かれています。あんなに貧しい不幸な人生だったと思われるにもかかわらず、なぜ、微笑んで死ねたのでしょうか。どんな人生をおくれたら、最後に微笑んで死を迎えることができるのでしょうか。この童話から考えさせられたことは、「ひかりに包まれる世界」のあることです。やさしかったおばあちゃんのいる「ひかりの世界」を、少女は心の中にはっきりと見て、そこへ帰って行ったのです。

普通の人は、日常死のことを考えて生きてはいませんが、例えば、ターミナル期にあるがん患者の場合を考えてみると、死が目前です。がん患者が点滴で日々を送っていることは、少女がマッチで暖まりながら生き延びていることと対応しているように思えます。この少女のように微笑んで死んでゆくことができるがん患者は、「ひかりの世界」を心の中に持っていることでしょう。眼に見えない「ひかりの世界」のあることに目覚めていない患者の場合、死は絶望となってゆくでしょう。

さらに考えてみるならば、がん患者だけでなく、私たち自身が、自我の欲望だけで生きているとしたら、少女が売り物であるマッチで暖まりながら生き延びていることと対応できるようです。私たちが、少女のように「微笑みを浮かべて」死んでゆくためには、「ひかりの世界」のあることに目覚めることが、重要なことになります。仏教では、「ひかりの世界」のことを、「浄土」あるいは「無量光明土」といいます。「念ずれば花ひらく」で知られる詩人・坂村真民師の詩に、「安らぎ」があります。

安らぎ(坂村真民 作詞)

帰って行く処がわかっているからあんないい顔になるのだ。

あんないい目になるのだ。あんな安らぎの姿になるのだ。

「ひかりの世界」は、煩悩の真下にあり、仏様を念ずれば斯(こ)の光に遇(あ)うことができます。微笑んで死んだ少女は、おばあちゃんを念ずることで、斯の光に遇ったのです。