「葉っぱのフレディ」の喜びと苦しみそして目覚め

山陰中央新報 平成30年5月28日 「教えの庭から」

        「葉っぱのフレディ」の目覚め

出雲市斐川町・仁照寺住職 江角弘道

絵本「葉っぱのフレディ~いのちの旅~」は、アメリカの哲学者レオ・バスカリーアが生涯でただ一冊書いた童話です。絵本の内容は,擬人化した大きな木にある葉っぱ(フレディと呼ぶ)の一生の喜びや悲しみ、そして苦悩と“いのち”への目覚めを描いています。子どもに「死」を考えさせる絵本ですが、大人にも好評でベストセラーになりました。医師・日野原重明先生は、この絵本をミュージカル化されました。

春に大きな木の太い枝に生まれたフレディは大きく育ち、仲間の葉っぱ達と幸せに生きてきましたが、秋が来て紅葉し、やがて散って死んでいくことに大きく悩みます。「こわいよう、ぼくも死ぬの?」とおびえるフレディに、友人の尊敬できる兄のような存在であるダニエルは教えました。「その通りさ、でも世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。死ぬというのも、変わることのひとつなんだ。だれでもいつかは死ぬ。でも“いのち”は永遠に生きている」 そして、秋の夕暮れ金色の光の中をダニエルは、満足そうな微笑みを浮かべ枝を離れていきました。フレディは、初雪の日に枝から離れ、地面に落ちました。その時、ダニエルから聞いた 「“いのち”というのは永遠に生きているのだ」という言葉を思い出しました。絵本の最後に作者は、「“いのち”は土や根や木の中の目に見えないところで、新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は,寸分の狂いもなく“いのち”を変化させ続けているのです」と結んでいます。

絵本の中では、“いのち”には、「死ぬいのち」ともう一つ「永遠に生きているいのち」の二種あることが示唆されていると考えられます。ここで言う「永遠に生きているいのち」は、「大自然のいのち」と言えるでしょう。

「大自然のいのち」は、何十億年以上の時をかけて人間を産み出してきました。仏教では、眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官は、「六根」と言われています。人は眼があって太陽を見ていると思っていますが、何億年にわたる太陽の照射の中で,次第に視覚細胞が作られてきました。植物は光に向かって成長します。これは植物の中に“眼なるもの”があるということになります。人間にも特に光に対して敏感な細胞が発達してきます。やがて視覚をつかさどる細胞が出来てきます。そうして眼が出来てきました。眼は、太陽のおかげでできています。だから眼の親様は太陽です。また耳は、空気のおかげで出来ています。音は空気の振動(音波)です。空気があるから音波が生じ,その音波が耳の鼓膜を振動させた時、それを音と感ずる細胞が出来てきます。だから耳の親様は空気です。同じように鼻・舌・身も大自然のおかげで、それらが発達し出来上がっています。作者が言うように、大自然の設計図は、このように“いのち”を変化させ続けています。さらに「意」つまり「心」は、このような「大自然のいのち」のおかげに目覚めるため、仏教的には、仏性(仏心)に目覚めるためにあると言えるのではないでしょうか。「大自然のいのち」は、人間が仏心に目覚めることを念じていると考えられます。

フレディは、永遠に生きている大自然の“いのち”に目覚めたからこそ、大きな安心の中で目を閉じ、ねむりに入れたのです。

 

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