いのちは誰のものか

「僧の来参するを見て呵斥す。僧曰く、「某、特に生死事大、無常迅速なるが為にして来る」と。師、罵りて曰く、「慧玄が会裏に生死無し」と。便ち打ちておい出す。 【正法山六祖伝、関山慧玄章】   開山様は、「慧玄が会裏に生死無し」と言われました。だから、常に「生死無きいのち」つまり「永遠のいのち」あるいは「見えないいのち」に生きておられたと考えます。 殆どの人が「命は誰のものか」という点に関して「命とは自分のものだ」と思っています。そのことは余りにも白明のことで、それゆえにそのことについて改めて真剣に問うこともありません。 実際、私たち自身そのように思っているし、社会全体も、そして肝心の教育や宗教の世界においても同様であります。したがって生命とは自分のものであるから、その自分の生命を自分勝手に生きればよい、ということになります。最近、援助交際という言葉も流行語になっていますが、本人たちもそうですが、またそれを糾す側もそれが間違いであるとして示す恨拠を明らかにすることもできず、結局なりゆきまかせで、人間としての守るべき道徳もますます崩壊してゆくばかりです。  確かに自分を離れて自分の生命があるわけではないのでそのように考えてしまうのも、一面、無埋からぬところもないとはいえます。しかしながらまさにそこに致命的とも云える盲点があるのです。そしてそのことが人間を根底から駄目にしているともいえます。 そして人間は自らがその背景に「生死なきいのち」を前提している限りにおいて、人間の行為は正しく作動するのでありますが、この「生死なきいのち」、「永遠のいのち」、「仏」あるいは「神」が消えてしまう時、人間はその自制力を失い、その行為は勝手気儘になり放逸になってゆくのです。そして人間は生命の(尊さ)の由来する根源(「生死なきいのち」)からみずからを遮断し、そして生命そのものの本質とその意義を見失ってゆくのです。その結果、生命とは自分のもの-自分勝手にできるもの、といった軽薄な思想をもつようになるのです。そしてそれは何よりも教育界において極めて顕著にみられるのです。今や教育とは単なる技術でしかなくなり、受験勉強の手段になり果て、真の生命の尊さに触れてゆくことは殆どありません。教育の最も根幹のところで肝心なものが欠けているとしか云いようがありません。 およそ宗教的内容のない教育は、そして思想、文化等も同様に軽薄たらざるをえません。命そのものについても「命とは自分のもの」と考えることによって生命そのものへの深い洞察は失われ、空しいものとなっているのが現状であります。以下、いのちについて科学的視点を交えて考察いたします。

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