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先だった命(講演) |
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1.はじめに |
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生まれた所が島根県の臨済宗妙心寺派仁照寺というお寺でした。「寺の後を継がねばならない」という観念がずっとありました。これは子供の時にそんな「すりこみ」がなされたのかなと思っています。
しかし、科学に興味があり、広島大学の理学部物理学科に入学し、物理学を学びました。研究者になりたいと考えていましたね。そのころノーベル賞をもらわれた朝永振一郎博士とか湯川秀樹博士にあこがれていましたね。それでその先生方と同じ素粒子物理学を専攻したのですね。だけど身の程知らずというか、その道は順調ではなくて、途中、専攻分野を素粒子物理学から実験系のプラズマ物理学に転向しました。この転向に関しては、悩みが深くて「何のために生きるか」ということをノイローゼになるほど悩んでいましたね。つまり青年期の最大課題に本当にぶつかったわけですね。このときは、子供の時の両親から学んだこと、体験が生きてくるときだと思います。そして、人との出会いが大切だと思います。そのときに、良き先輩の導きで、今日のこの集いの後援をされている広島大学仏教青年会に入って、歎異抄などを読んだりしていました。その良き先輩とは、広島大学の松田正典教授でした。今年の4月に定年退官されていますね。中国新聞の3月26日の洗心欄にそのことが載っていましたね。
また、やっぱり寺を継ごうと心に決めて、禅の入門的な研修会に参加したんですね。これは、島根県の一畑寺でありました。その時の老師は南禅寺の今は亡き勝平宗徹老師の提唱に碧厳録の鏡清雨滴声という公案でした。
「門外これ何の声ぞ 雨滴声 衆生顛倒して己に迷いて物を逐う。」 |
というものです。私は、道を歩きながら、「衆生顛倒して己に迷いて物を逐う。」というところを繰り返しながら言っていたんですね。そしたら、ある日、「そうか、自分に迷って、私は自分以外の物だけを逐っていたんだな」とわかったんですね。自己を求めなければいけないのだなとわからせていただいたんですね。己事究明ですよね。それから、悩みが少し楽になってきたんですね。
その後、広島電機大学(現在の広島国際学院大学ですね)の電気工学科に就職し、教育と研究を続けてきました。その間に、「寺の後を継ぐ」という観念がやはり底流にあります。その時、ある人の紹介で三原の仏通寺で座禅会をやっている。ということで参加したり、広島市内の禅林寺での座禅会に参加したりしました。そんなときに仏通寺で、ここにおられる岡本先生と出会ったんですね。この当時、岡本先生は、公案がかなり進んでいたわけですね。あるとき、参禅に行くために喚鐘場で私の順番が回ってきたため、喚鐘を打って出ようとしたとき、私の後ろに順番を待っていた岡本先生が、先に出て老師のおられる部屋に入って、先に問答をしてしまわれたということがありました。それぐらい打ち込んでおられたのだと思います。今思うと非常に懐かしい場面ですね。
一方、大学での研究の方もうまくいき、理学博士の論文を提出し、その審査に合格した年(昭和54年でした)に今日お話しする二女の真理子が生まれたわけです。ちょうど博士号を頂いた時ですし、真理の探究という意味で、真理をとって、真理子と名付けました。
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