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先だった命(講演)

3.残された者達の苦悩―――死の事実にのたうちまわっています。
 4)父


 3つには、「真理子は何処に行ったのか」ということ。その問いを真理子にぶっつけて考えていると、真理子の方から「じゃ、お父さんは何処へ行こうとしているの」という問いかけが帰ってきた。私たち人間の最終的に行くところは何処なのだろうか。
 画家のゴーギャンは、かわいがっていた長女に死なれて、悲嘆のあまり人里離れた山に入って、服毒自殺をはかったけど、死にきれずに、山を下りてきました。この山を下りて来たときに、彼は娘を奪われ、さらに我が身を抹消しようとしましたが、できなかったという苦しみを経て、それでも死ねなかった。それでも生かされている。そうだとすれば「何故生かされているか?」という思いの中で、大きな布のうえに一気に絵を描いた。その絵のタイトルは、「私たちはどこからきて、今どこにいて、これからどこへ行くのか」というものでした。
 


ポール・ゴーギャン
"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"


 その辺の事情が、この「優しい風」の冊子の中に書いてあります。この冊子は、子供を亡くした親の会「ちいさな風の会」世話人の若林一美さんが妙心寺でされた講演をまとめたものです。このちいさな風の会にも家内は参加しているんですね。
 私たちは、人生の旅をしている。旅には目的地があるはずだ。私の旅の目的地は何処だろう。いままでは目的地を考えずに、ただ日々を追われて送っていた。やがて死ぬ定めにある人間にとって「死」は目的地ではないだろうか。「死」とは一体何なのか。それは「命」とは何であるかを考えることになる。
 考えてみれば、私が結婚する前は、真理子はいなかったのである(この世にいないから「空」と言っても良いだろう)。結婚し4年後に、二女として家族の一員となった(この世に現れたから「色」と言っても良いだろう)。そして約1年前忽然とこの世からいなくなった(「空」となった)。毎朝の勤行で読んでいる般若心経に有名な言葉、「色即是空、空即是色」がある。「色(形あるもの)」は「空」そのものであり、逆に「空」は「色」そのものであると述べてある。真理子にとって、時間的な経過で言えば、空即是色・色即是空であるかもしれない。つまり真理子は、空から現れ、色となり、そして空に帰ったのか。その空とは何なのか。空を単なる実体のないものと単純に考えてはいけないのでしょう。それは、おおいなる世界、おおいなる命、Something Greatness、浄土などと呼ばれているものなのかもしれません。
 
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