「いのち」の流れ

Ⅰ.はじめに
私たちの「いのち」はどこからきたのでしょうか。今、私たちが生きているのは、親の生命が流れ込んでいるからです。またその親が生きていたのは、その親の生命が流れ込んでいたからです。このように過去へ過去へと遡ってみますと、地球があったから、そこに生命の誕生があったのです。その地球は、太陽の惑星として生まれました。さらにその太陽は、天の川銀河系の中から生まれてきた。銀河系は、宇宙の始まりにビッグバン(大爆発)があり、その宇宙の膨張過程の中で誕生してきたものです。このように「いのち」について考察することは、「コスモロジー(宇宙論)」の展開と関係してきます。この場合のコスモロジーとは、近代理性中心主義―物質科学主義的コスモロジーを超えた霊性的コスモロジーであると考えられます。つまり、仏教の根底に霊性的コスモロジーが横たわっていると考えられます。
18世紀末のドイツロマン派詩人のノヴァーリス(1772~1802)の「フラグメンテ(断片集)」の中にある次の詩は、その人の深い感性を感じさせます。それは、霊性といっても良いと思われます。
すべての見えるものは、見えないものにさわっている
聞こえるものは、聞こえないものにさわっている
感じられるものは、感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、
考えられないものにさわっているだろう
この詩は、般若心経の中の名句「色即是空空即是色受想行識亦復如是」と対応していると考えられます。対応関係を示せば、次のようになります。
見えるもの・・・・・・・色 ⇔ 見えないもの・・・・・空
聞こえるもの・・・・・・声 ⇔ 聞こえないもの・・・・空
感じられるもの・・・受・想 ⇔ 感じられないもの・・・空
考えられるもの・・・行・識 ⇔ 考えられないもの・・・空
これらのものは、すべては「空」と関係しています。それは「大いなるもの・霊性」と関係していると考えられます。
また、次の金子みすず(1903~1930)の詩にも、「大いなるもの・霊性」の働きと関係していると考えられます。
蓮と鶏(金子みすず作詞)
泥の中から 蓮が咲く それをするのは蓮じゃない
卵の中から 鶏が出る それをするのは鶏じゃない
それに私は気がついた それも私のせいじゃない。
これら詩から、「霊性」について考察することは、「いのち」について考察することになります。
さらに、陶芸家である河井寛次郎(1890~1966)は、彫刻、書、詩や随筆などについても優れた作品を残しています。随筆集「火の誓ひ」(209頁)の中の次の詩にも、「大いなるもの・霊性」の働きが考えられます。
「だれが動いているのか これこの手」
物理学者にして、文化勲章受章者であり、東京大学総長や文部大臣などを歴任された有馬朗人氏(1930~)は、また有名な俳人でもあり、その句の中に次のような自然科学的な俳句があります(有馬朗人第六句集『不稀』より)。
「ビッグバンの残光にして初日影」
有馬氏は、初日を仰ぎながら、これは138億年前にあったビッグバン(大爆発)の残光であるなどと考えておられる。そこには、自然科学者の眼差しがある。
現代宇宙物理学によりますと、私たちの住む宇宙は、今から137億年前に、「無のゆらぎ」から直径0.00000000000000000000000000000000001センチメートルの1点(超ミクロ宇宙)として突然に生まれました。現在にいたるまでの138億年の壮大な宇宙史は、すべてこの1点から始まったのです。現代科学において、ミクロな世界を考察する理論は量子論です。携帯電話、テレビ、電子レンジなど現代生活で使用されている電気製品は、すべて量子論から生み出されて来ています。量子論で「超ミクロ宇宙」を推論すると、そこは、無(真空の状態)がゆらいでいると考えられます。そのゆらぎが、臨界値を超えて、急膨張し、ビッグバンが起こったと推論されています。
それにしても、だれがこの「無のゆらぎ」から、ビッグバンが生ずるようになる引き金を引いたのでしょうか。その引き金の引き手は、生命の根源であり、それは、大いなるもの・理解することができないもの・量り知れないも・無量なるものとしか言いようがありません。それを、サンスクリットで『アミタ』(阿弥陀はサンスクリットの「アミタamita」の音のあて字であり、「アa」が否定を意味し、「ミタmita」が「計算する、量る」を意味します。だから「アミタamita」は計算できないもの、量り知れないものとなります。それで阿弥陀は無量と訳されます。)と言います。即ち、阿弥陀の法身からエネルギーが流れ出て、地球が生まれ、生命が誕生し、今日の私たちが存在していると考えられます。だが科学者の多くは、「阿弥陀の法身からのエネルギー」などとは、考えずに今後研究を深めて行けば科学的に解明されるだろうと考えています。
しかし、生命科学者の村上和雄は、そのことに気づき、「大いなるもの」を「サムシング・グレート(something great)」と呼んでいます。また、宇宙物理学者の桜井邦明は、「人間のような生命が存在できるためには、宇宙の進化の過程の中で、星々が形成され、そのエネルギー源となる熱核融合反応を通じて、生命が必要とするいろいろな元素の合成が成されていなければならなかった。この反応は星の中心部で、順に重い元素を軽い元素群から合成するもので、生命に必須な炭素や窒素、酸素は、ヘリウム同士の融合を基本過程として合成されてくる。生命も、宇宙の進化の過程から離れては存在しえないのである。したがって、宇宙の進化が、私たちの前に今広がっているような自然界を作りだしてくれるものでなかったとしたら、私たちは存在していなかったことになる。宇宙に存在する物質の間には、四つの力が働いている。四つの力の強さを決める物理定数、つまり結合定数が、どれでもよいから現在知られている大きさと違いがあったら、今までに明らかにされたような宇宙の進化は起こっていなかったことになる。これは偶然に生じたとは、とても考えることができないことである。 生命が存在できるような形に、自然界に見つかるいろいろな物理量が必然的に決まっているとも考えられる。宇宙には前もって定められたデザイン原理のようなもの、すなわち『宇宙意志』があると思える。」と述べています(「宇宙には意志がある」、クレトス社、1995年)。『宇宙意思』とは阿弥陀如来の働きであると考えられます。

筆者は、20代の頃から35年間物理学の研究に携わってきました。その間に臨済禅の修行も少しばかり経験をしてきました。そんな中で、50代半ばに「二十歳の娘(二女)の理不尽な突然死」と遭遇し、その後、河波定昌上人の法話、山本空外上人の本「念仏と生活」、「無二的人間」、山崎辨栄上人の本「人生の帰趣」、「宗祖の皮髄」に出会いました。このような経緯の中から、物理学と仏教が共に宇宙の真理・法を探求するものであることがはっきりしてきました。
河波上人は、仏教は「ひかりの現象学」であると述べられています。筆者は、この言葉に目覚めさせられて、物理学は「エネルギーの現象学」であることが深く肯けました。だから、現在はありがたい御上人方と不思議なご縁でお会いできたおかげで、ビッグバンはまさしく「阿弥陀仏の法身からのエネルギー」であるということが頷けます。今、現に生きながらえていることも決して私の力ではない。育ててくれた親のおかげ、助けてくれる家族、地域の人々、社会、国家のおかげそして水や空気や食物のおかげと数えきれない一切のおかげを頂いている。すべてのものは、重重無尽な相互依存の関係で存在しているのです。それを言い換えれば、阿弥陀仏のおかげによって生かされているのです。そして、その「阿弥陀仏様のおかげ」と感じさせているものこそは、霊性といえるものではないでしょうか。私も有馬氏にまねて、一句詠んでみました。
「ビッグバンのおかげなりしや初日の出」
普通一般の人は、霊性の存在を感じずに一生を終る場合もありますが、修行をされた人、苦難を乗り越えられた人などは、霊性を感じておられます。妙心寺派の管長や花園大学の学長をなされた山田無文老師(1900~1988)が、修行時代に結核に侵され、自宅に帰られて療養をされていた苦難の頃に、ある朝、ふと障子を開けて、濡れ縁に出られた時、一陣の風を感じられたその時に感動され、その想いを次の歌に託されました。
「大いなるものに抱かれあることを、今朝吹く風の涼しさに知る。」
この時、無文老師は、「人は決して自分一人で生きているのではない。大きな力に生かされておるのである」ことを実感され、「ああすまんことでした。もったいないことであつた。」と、とめどもなく歓喜の涙を流されたとのことです。この「大いなるもの」は、実は「霊性」といえるものです。この歌が出来る直前に無文老師は、『いったい風とは何だろう』と考えられて、『空気がうごいているんだ』、『空気! そうだ! 空気と言うものがあったんだなあ』と空気の存在に感動をされています。この瞬間、無文老師は、風(空気)に「大いなるもの」つまり「霊性」を感じられていたのです。それは常に存在し、私たちを生かしているものであり、それが私たちの呼吸となって「いき」する時、それが私たち自身の「いき」る根源となり、いわゆる「生きる」ことは「いき(呼吸)する」ことであり、「生命の根源」と一つに連なっていたのです。そして、私たちは、生きているのではなくて、空気に(霊性に)生かされているのです。
河波上人は、「霊性とは、天地にわたって全宇宙的に満ちており、どこまでも天空的であり、また大地的である。それゆえにこの霊性は普遍(偏在)的なものであるが、現実には日本的霊性やドイツ的霊性、そしてフランス的霊性などが考えられる(河波昌著:形相と空、138頁)。」と述べられている。
霊性は、人類が誕生してきてから、それぞれの場所で特有な名前で呼ばれるようになったと考えられますが、実は人類が地球上に現れる前から流れていた、つまり宇宙の始まりから流れていたということが考えられます。

Ⅱ.日本的霊性について
日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者の鈴木大拙師(1870~1966)は、昭和19年(1944年)に著書「日本的霊性」を刊行されました。霊性は普通に精神と言っているはたらきと違うものである。精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智であると著書の中で述べている。それは明治期以降の近代日本が理性に偏重していた当時に、近代理性中心主義からの転換を、「霊性」という言葉で日本国民に警鐘をならしたのだろうか。
また、「霊性を宗教意識と言ってよい。ただ、宗教と云うと普通一般には誤解を生じ易いのである。日本人は宗教に対して余り深い了解を持っていないようで、或いは宗教を迷信の又の名のように考えたり、或いは宗教でも何でもないものを宗教的信仰で裏付けようとしたりして居る。それで宗教意識とは言はずに霊性と云うのである。が、元来宗教なるものは、それに対する意識の喚起せられざる限り、何だかわからないものなのである。これは何事についても、云われ得ると思われるが、一般意識上の事象なら、何とかいくらかの推測か想像か同情かが許されよう。ただ宗教についてはどうしても霊性とでも云うべきはたらきが出て来ないといけないのである。即ち霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる。」(鈴木大拙全集 第8巻 22頁)と述べている。
さらに、「宗教は、人間の精神がその霊性を認得する経験であると云われるのである。宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むとき、自らの霊性に触著する時節があると、対立相剋の悶は自然に融消し去るのである。これを本当の意味での宗教と云う。」(同書 24頁)と述べている。そして、日本的霊性の成立を鎌倉仏教にみていました。
河波定昌上人は、「日本的霊性について」次のように述べられている(河波昌著:形相と空、139~141頁)。
「霊性とはたんなる人間の観念論的ないとなみにとどまるものではない。それはどこまでも真実にして現実的なるものの生起である。それゆえに日本的霊性の展開も、華厳的表現を借りればそれは「如来性起」あるいは「如来出現」の一環をなすものにほかならない。全宇宙的に遍在する霊性が、私たちのうちに現起してくるのである。それは宇宙論的な生起である。鈴木大拙はその具体的な展開を鎌倉仏教以降に見ていた。
この霊性は私を包んで私のあらゆる側面にはたらきかけるものであり、また私を突き破って私の内奥の根底からはたらき出るものでもある。そこでは外(超越)が内(内在)であり、内が外である。両者は不二であり相即的である。
この霊性はまた理性が分別的、部分的であるのに対して、全体的であり、包含的である。それゆえ霊性は感性的なるものの尖端にも全面的にはたらく。有名な芭蕉の俳句である、
あら尊と 青葉若葉に日の光
ここでは日常的に経験する日の光に霊性的なものが現起している。日の光に対する感覚は、その感覚を通して霊性的なものを喚起している。「あら尊と」とは日常的なるものに対する霊性の突破を示している。日本民族の、感性的なものに即して霊性的なものを実現していく態度は、世界的にも卓越無比である。
自然の豊かさに恵まれた日本人にとって自然とは、豊かな霊性の基盤をなすものであった。日本人は気づこうと気づくまいとにかかわらず、事実として無意識のうちにこの自然の霊性と感応道交していた。月の清浄さに感動しつつ、霊性の清浄さと現実的な交わりがあった。鈴木大拙も人々を戦争にかり立てたイデオロギーとしての国家神道をきびしく批判しつつ、その奥底に素朴ではあっても本来は豊かな霊性としての自然そのものを洞察していたことは注目すべきである。
自然科学の立場において見られるように、自然を対象化し一面的に見ることによって霊性は消滅する。近代はこの霊性を理性によって殺戮してきた時代であった。近代的自我の確立が、その原因となっていた。その近代的自我の超克の上にはじめて、より高次の豊かな霊性的自我が展開される。大拙の『日本的霊性』の意義は、実に測り知れないほど重要である。」
また、淑徳大学公開講座における河波昌上人講演(2010年12月8日)では、「日本的霊性―雪月花の奥底にはたらくもの」として次のように語られました。
「日本的霊性は、1万年も続いた縄文時代から始まっていた。そしてそれは弥生文化、そして大乗仏教の受容を通して限りなく深められていった。鎌倉仏教もその顕著なる一契機となるのである。
ところで1万年以上も続いた縄文文化はまさに日本の霊性文化の基調をなすもので、それへのアプローチには、①風土的思考、②祭祀(遺跡)への思考、③霊性的言語からの考究がある。
①に関して:日本的風土、とりわけ自然が成立の要因となる。それらは地水火風空、そして雪月花等が重要な契機となる。雪月花は日本人の美意識を形成していったが、それに即して実に霊性的意識を深めていった。
②に関して:祭祀(遺跡)、例えば「ひもろぎ」等、それは霊性的なものが集中する場処である。【注:古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保った。古くはその場所を神籬(ひもろぎ)と呼んだ。「ひもろぎ」(古代には「ひもろき」)の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる。】 いわゆる祭祀空間、そしてその行為、意義等の考察が重要である。
③に関して:日本的霊性への言語からのアプローチ、たとえばカミ、さらにそれに先行する言葉として、ミ(→ワダツミ)、チ(→チハヤブル)等が考えられる。【注:「ワタ(ダ)」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる。「チハヤブル」は「神」にかかる枕詞である。例えば「雷」は古くは「イカズチ」と言われていてその語源は、「イカ」は「たけだけしい」「荒々しい」の意で「厳しい」の語幹、「ズ(ツ)」は助詞の「ツ」、「チ」は「ミズチ(水霊)」や「オロチ(大蛇)」の「チ」と同じ霊的な力をもつものを表す言葉で、「厳しい霊」が語源となる。さらに、「イノチ」の「イ」が「生く」、「息吹く」、「息」を意味し、「チ」は「霊」の意味、だから「イノチ」は生命の根源の霊力の意味になる。】なお霊性自体は不可視であるが、それは種々に現象し、露わとなっている。また、紀元前後より日本に由来した漢字が加わることにより、原始日本語が壊れていったと言える。例えば「すむ」は、「住む」、「澄む」、「済む」、「棲む」、「清む」など漢字を加えることにより、意味が限定されてくる。
日本的美形成の三要因としての雪月花も霊性的背景なくしては徹底しない。例えば、雪は斎潔(ユキ)であり雪ではない(斎(ユ)は神女が神前で神事を行う様を示すものであり、潔(キ)は清浄の行為である。花、とりわけ「サクラ」はさ(神性)がそこに現前する場(クラ)であり、花見とはそこに神聖さを見る呪術的ないとなみであった。花もまたそれを見る単なる私たちの主観のいとなみの次元の問題ではなく、むしろ霊性が花となって働いていたというべきである。それは、人間の主観以前の問題である。月見もまた月の清浄さ、円満さを自らの内に取り込む呪術そのものである。月を詠む和歌もまた呪術的行為が先行していたのである。月も縄文文化の核をなすものであった。それは狩猟経済と不可分のものであったが、又その月は清浄さ、完全性等の霊性文化形成の核をなすものであった。月に関しては無数ともいえる程の歌が詠出されているが、次はその数例である。
秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出ずる月の影のさやけさ
(左京大夫顕輔)
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
(明恵)
月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ
(法然)
月を見て月に心のすむ時は 月こそ己が心なるらめ
(山崎辨栄)
このような伝統的な霊性基盤から人間形成がなされていったのである。この霊性は、まさしく人間形成の核をなすものであり、雪月花となって働いているのである。つまり雪月花をとおして「感応道交」が行われている。森や湖水や林などに霊的な場所があり、霊性はいろいろな形で現象してくる。そして法然上人の歌『阿弥陀仏と心は西に空蝉のもぬけはてたる声ぞすずしき』にあるごとく、念仏の中で霊性が現象してくるのである。」

Ⅲ.霊性の流れ
一方、近代において、「霊性」を深く展開されたのは、山崎辨栄上人(1859~1920)であった。鈴木大拙師に先行すること半世紀くらい前から、豊かな展開をなされていた。辨栄上人遺稿要集である「人生の帰趣」(10頁)に、霊性が次のように説明されている。
「仏教に、人の心性に仏性と煩悩との両面を持っていると説いてある。仏性の方は人々具有するもまだ伏能である。例えば鶏の卵の様なものにて之を孵化して雛としなければ鶏となることはできぬ。卵の中に鶏となり得られる性をもっているので外部から容れるものではない。霊性は本来各自具有している。外界から仏性が容れられるものではないと。また仏性と共に煩悩という罪悪の性ももっている。この煩悩は大霊の力によって霊化せられる。即ち煩悩は菩提である。即ち高等なる道徳心と成るのである。例えば渋柿の実もよく乾燥して甘干となれば渋味が変化してかえって甘味となるごとくである。」と述べられている。ここでは、霊性は仏性と同義のものである。霊化とは、鈴木大拙の言う「霊性に目覚めること」に対応している。
この霊性なるものが何より生まれ、現在までどのように成長してきているのであろうか。まず、辨栄上人は、「仏法という真理は、宇宙の大法である。宇宙の大勢力は、太陽及び地球等の万物の設備をもって、一切の生物界を生成し原始生物極小の生物よりして進化せしめて、ついに終局は永劫の大涅槃に帰趣せしむるの勢能なり(7ページ)。」と説明されている。これを現代科学的に考えれば、宇宙の大勢力とは宇宙の始まりのビッグバン(大爆発)の大エネルギーに相当すると考えられる。このエネルギーの流れるところでは、太陽や地球が生成され、そして地球上に生物を生じさせ、ついに人類を誕生させて、その人類を、やがて大涅槃に帰趣させるエネルギーとして流れるということになる。
上記のことは、「生産門」として次のように説明されている(179頁~180頁)。
「法身より世界を発展し、世界より衆生を産出したる次第を論ずれば、先づ一大法は万有の本源にて即ち大心霊である。その属性の一切智と一切能との働きにより世界万有を発展してきたものであり、もしこれを外部より見れば因縁と因果とに形成せられる世界と及び衆生である。さらに言を換えて言えば、いわば法身は、大造化の故にその分身たる世界もまた中法身造物主である。衆生もまた小法身造化と云う事ができる。
大法身が常恒の遍動に依って世界を活動せしめ、世界もまた常恒の活動によりて、衆生を生活せしむ。各位共に全力をつくして生活し活動して止まぬ。絶対に比せば大海の小浮たる太陽系においても、また下りて衆生に於ても、何れも進化の為に常に努力しつつある状態を見よ。
先づ、太陽が初め星雲の状態より無数の時間を以て自己を完全せんとしての努力の結果は、すでに成功を遂げて大威力ある恒星を成す。而して絶対者の威力の分身をあらわし、しかも天体の親として、地球という子を分娩し親の恩寵は、子の為めに常恒に力を注ぎて休息すること無し。地球もまた、初めガス態より努力の結果は、生物なる無数の子を産みて之を養成す。其の地球も高等なる動物を養ふ資格未だ完備せざる間は、微小の生物を発生してきた。動物の原始状態においてもその初めアミーバ底の生物として世に現はれてきた。其の極小なる生物にも、法身よりの一系統を受けたる性能を具有しているを以て、外縁の許す限りは発達せんとする。其の内に絶対より受けたる活力あり。ほかにこれを助成する機関あり。これが植物等と共に増進し、生物を進化せしむる内外の因縁によりて漸次に発達した。
かくて無数の階級を経て、ついには人類という高等なる動物に現化せり。人類もまた原始的なる不完全の状態より漸次に完全に向かって進んできた。人類進化の目的は他の科学者の方より見れば、また見解を異にするけど、吾人宗教的立場より言及すれば、生理機能なる即ち肉体は手段にして、精神の方面に於て、永遠不滅の生命に入りて真の目的をとぐるところに在るものとす。即ち人の精神の奥底に潜める最高等なる霊性を発揮し、如来の聖旨にかなう霊的人格となり、終局は、本覚の涅槃に帰着するところに在るものとなす。」
以上から、ビッグバンから流れ出た想像を絶する莫大なエネルギーの流れは、「霊性の流れ」とも言えると考えられる。そして、ビッグバンの引き金を引かれた方こそは、宇宙の大霊体なる法身如来(大ミオヤ)であろうと考えられる。
「ぞうさん」や「やぎのゆうびんやさん」などの童謡の作家として有名なまど・みちお氏に、「水は うたいます」という詩があります(まど・みちお全詩集、理論社)。
水は うたいます
川を はしりながら
海になる日の びょうびょうを
海だった日の びょうびょうを
雲になる日の ゆうゆうを
雲だった日の ゆうゆうを
雨になる日の ざんざかを
雨だった日の ざんざかを
虹になる日の やっほーを
虹だった日の やっほーを
雪や氷になる日の こんこんこんこんを
雪や氷だった日の こんこんこんこんを
水は うたいます
川は はしりながら
川であるいまの どんどこを
水である自分の えいえんを

ここでは「水」が霊性と呼ぶべきものに当たり、その水が縁に従って海の姿となり、あるいは雲や虹の気体状態となったり、雨の液体状態となったり、雪や氷という個体状態となったりして変化しています。まど・みちお氏は、「ひとつの水の無限の姿であって、別のものではない」というのです。霊性は、縁に従ってさまざまな姿となり、流れて行くのです。そして人間の姿にもなったのだと考えられます。だから、凡夫が修行して悟ることで、初めて仏性・霊性を手に入れるということではなくて、初めから霊性が備わっていることに気づかず迷っているのが凡夫なのだということです。私たちは、霊性の働きによって生かされているのです。気づくとか気づかないとかにかかわらず、心臓が動き、呼吸ができ、話すことも、動くことも、食べることも、すべて霊性からの働きかけによるものであるということです。
科学者のジェームズ・ラブロックによって、地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることから、地球をある種の「巨大な生命体」と見なすガイア仮説を述べました。物質である地球を生命体とみなすのは、両者にある重々無尽な相互依存関係です。従って、大宇宙そのものも、ひとつの生命体として活動していると考えられます。成人した人間は、約60兆個の細胞から構成されていますが、それらが一糸乱れず法則のもとに活動しつづけているおかげで、ひとりの人間の「いのち」が現れています。これと同じように、大宇宙の「いのち」は、地球や太陽がひとつの生命体として活動することにより、現れているといえます。釈尊はこのありようを「縁起の法」として悟られました。釈尊は、三十五歳の十二月八日未明、暁の明星(金星)がひときわ明るく輝いた時、宇宙の大法である「縁起の法」を発見せられました。この縁起の法は釈尊の出世に関係なく永遠の過去から未来まで、宇宙に存在するあらゆる物を貫き、働いています。この法こそが、『大いなるもの』であるといえます。釈尊は、光(金星の光)に如来を感じられていたのです。
たまたま釈尊によって発見されたから仏法と名づけるのであって、それは物理学の万有引力の法則のごとく、いつどこで、だれでも認めなければならないものなのです。さらに、この偉大なる悟りをおひらきになったとき、まず口をついて叫ばれたことは、「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」というお言葉でありました。また「一仏成道して法界を観見すれば、草木国土悉く皆成仏す」というお言葉であったと申します。大自覚にはいられた釈尊が、自ら反省してみられたとき、その自覚の内容である智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生れながらにして心中に内存しておるもの・霊性であったことに気づかれて、驚喜されたのです。
また、一休宗純禅師(1394~1481)には修行中の次の歌がある。
「本来の面目坊が立ち姿、一目見るより恋とこそなれ」、
「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢も此の君ゆえに身をやつしたれ」
これらの歌は、「大いなるもの」に触れたい会いたい一心で高次の恋(霊恋)をしている様子を歌ったものである。それは、「大いなるもの」に接触しないと、自己の霊性(仏性)が目覚めないからであると考えられる。そして悟りの歌として、次のものがある。
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」
この歌の意について、辨栄上人は、「我らは今、人間に生まれ出しも、我が心霊が何れより来たかということも知らない。また、死して何れに趣向すべきやもしらず、闇より闇にさまよう凡夫である。しかるに先覚者なる釈尊の教えたる経文を読みて初めて我らは、無明を父とし、煩悩を母として生を受けたるもの、その先の迷い出ぬ昔の本覚真如の都に自性天真如来という真の父の在ますと聞きてより心の奥底に潜める霊が喚起されてしきりに天真のミオヤが恋しくなるということである。」(人生の帰趣、451頁)

童謡詩人の金子みすずに次の詩があります。

はちと神さま(金子みすず作詞)
はちはお花のなかに,お花はお庭のなかに,
お庭は土塀のなかに,
土塀は町のなかに,町は日本のなかに,
日本は世界のなかに,世界は神さまのなかに。
そうして,そうして,
神さまは小ちゃなはちのなかに。
この詩は、超越(世界(はちはその中に一つ)は神様の中に)と内在(神さまは小ちゃなはちのなかに)を分かり易く述べています。神様の中に私がおり、私の中に神様がいる。超越と内在が一つになって働いてくること、外から働きかける者が内から湧き出てくるのです。私のこころがなくなったとき(空になったとき)に、滾々(こんこん)と私のこころの奥から泉の如く湧き出てくる者があります。まさに「霊性」が流れ出て働きだすところを詩っています。華厳経の中に「一々の微塵の中に、各々仏あり」とあります。